完結した夏 1〜3節

Posted on, by | 4月 1, 2000 | | No Comments

 1(現)

 疲れていた。自分に何もなかった。疲れていた。夜だった。疲れていた。空が見たかった。空が動いていれば、それでよかった。
 だから窓を開けた。
 動いていた。空だけでなく、全てが動いていた。どうでもよかった。空の動き方が一番好きだった。苦痛だった。車の音が苦痛だった。隣家の明かりが苦痛だった。空だけあればよかった。警官が俺を見すえながら右から左へ過ぎて行った。警官は嫌いだ、緊張するから。女が好きだ、柔らかく、滑らかだから。どうでもいい、空があれば。蚊に刺された。餌にされた。どうでもよかった。嘘だ。殺していた。手のひらに貼りついたぺしゃんこの蚊の腹部から赤が散っていた。俺の血液かもしれない。
 そして気がついた。驚いたことに、俺を疲れさせているのは、俺だった。

 2(遠)

 それは俺が七歳、小学二年の夏休みだった。俺は母に手を引かれ、夏の日差し照りつける古びたアスファルトの道を歩いていた。
 空気が揺らめく暑さだった。
 道端には夏草がうっそうと生い茂り、三面コンクリートの川面はまばゆく揺らめいていた。川の側面にうじゃうじゃと貼りついたタニシの貝殻は、どれもしっとりと濡れていた。
「水面(みなも)」頭上で母の声がした。
 野球帽のツバを上げると、手を引く母の腕がうっすらと汗ばんでいた。その手首で揺れるブレスレットは汗のために白く曇っていた。
「これからおじゃまするお家はね、藤館智子(ふじしろともこ)さんっていう、ママの学生時代のお友達なのよ」
 ヒマワリ柄の黄色いワンピース。ツバの大きな白い帽子。真っ赤な口紅を引いた唇。くっきりと描かれた眉。まつ毛の一本々々まで分かるマスカラ。
「懐かしいわあ……ママと智子はね、学生時代、二人ともパパのことが好きになってね……」真っ赤な唇が笑みを噛み殺すように歪んだ。
「ママ……おばけ……みたい……」
 その時、すぐ目の前を、物凄いスピードで車が横切った。母のワンピースの裾がはためいた。母は瞬時に帽子を押さえた。俺は野球帽を吹き飛ばされ、振り向くと、大きく宙に舞っていた。
「ああ……」
 母の手を振りほどき、追いかけると、帽子は杉の木陰にふわりと着地した。しゃがみ込んで手に取ると、頭上近くでセミが鳴いた。
 ジィィィイイイイ……
 見上げると、杉の幹の所々でペロリと剥がれた樹皮がぶら下がっていた。その色に溶け込むように、アブラゼミが一匹、二匹、三匹、四匹……
「水面!」
 そう聞こえた気がして振り返った。母の後ろ姿は遠くで帽子を押さえていた。気のせいか肩が小刻みに震えているように見えた。頭上では、セミの声が一段と高鳴った。
 ジィイイ、ジィー、ジィー、ジィー、ジィィィィー……
「うるさい、うるさい、うるさい……」木を見上げ、一番低いところで鳴くセミをつかまえようと跳びはねた。だが、伸ばした指先がわずかに届かない。俺は再び跳びはねた。やはりわずかに届かない。セミはさらに声を高め、前後に尻を振りだした。
 ジィイイ!ジィー!ジィー!ジィー!ジィィィィー……
 俺はなおも跳びはねた。何度も何度も跳びはねた。そのたびに枝葉の隙間から光の筋が差し込んだ。セミの声が前後した。
「水面!」
 今度ははっきりそう聞こえて振り向くと、間近に母が迫っていた。「どうしてあんたは!」
 パァーン!……母が俺の頬を張った。
「あんたはどうして!」母が大きく手を振り上げた。「いつもいつも!」手を振り上げた。「いつもいつも!」手を振り上げた。「いつも!……いつも!」手を振り上げた。
 母は手を振り上げて、何度も何度も頬を張った。風を切る音がして、何度も何度も頬を張った。シャリシャリとブレスレットのぶつかり合う音がして、何度も何度も頬を張った。何度も、何度も、頬を張った。
「マ、マ……」そう言うと、母の手が止まった。
「あんたはあいつにそっくりなんだよ!」
 母はその手で俺の髪をつかみ上げると、引きずりながらどんどん歩いた。セミはまだ高らかに、隙間なく鳴いていた。空は青く、太陽は白く揺らめいていた。流れる風は蒸し暑く、その中に、俺はいつもの夏を見つけた。
 かすかに甘酸っぱい、汗ばんだ母の脇の匂い。

 3(近)

「水面、お腹すいたよぉ」
 文香(あやか)は全裸で俺の脚に擦り寄った。サラサラとした長い黒髪が俺の脚にまとわりついた。俺は文香の頭をそのまま蹴り上げた。文香はドサリと床に転がった。
「うるっせえんだよ!」
 文香が床に伏せたままつぶやく。
「水面、お願い……お腹がすいて死にそうなの……お願い……」
 文香が両手で床をガリガリ引っ掻いた。俺は文香の髪をつかみ上げ、自分の顔を近づけた。文香の口に血がにじんでいた。
「何で俺がお前なんかに食わせてやんなきゃなんねえんだよ、ああ?」
 そのまま口づけた。柔らかな唇に口づけた。瑞々しい頬に口づけた。まぶたに、額に口づけた。鼻に、傷に口づけた。文香はその細い両腕を俺の首に絡ませた。
「ねえ、お願い……気持ちよくしてあげるから……ねえ……」
「……あ、げ、る?」
 頭を床に投げつけた。文香は深く倒れ伏した。カーテン越しの光を浴びて、その様は美しかった。
 俺は冷蔵庫のドアを開き、残っていた御飯と卵と豆腐とマリネをボウルにぶち込んだ。そこにマヨネーズとケチャップとタバスコをぶちまけて、ゴチャゴチャと掻き混ぜた。
「ほら、食えよ」
 床に伏した文香の顔の前にボウルを置いた。
「……あの……スプーンとか……」
「イヌはそのまま食うんだろ?」
「はい……」
 文香はボウルに顔を突っ込み、うまそうにガツガツ食べた。腕をたたみ、脚をたたみ、背を丸め、ガツガツ食べた。カーテン越しの淡い光を浴びたその姿は神々しく、清らかだった。俺は完全に興奮した。
 文香の柔らかな尻を両手で持ち上げ、挿入した。ボウルの中で文香がうめいた。入れて出し、出して入れ、深度を徐々に増して行った。俺はカーテンを開いた。青空だった。
「文香、いい加減に憶えたか?」
 青空を横切って、カラスが黒い翼を大きく広げた。その羽根の一枚一枚をはためかせながら空をつかんで減速し、羽ばたき、向かいの屋根に着地した。
「恐れを知らない奴は、何一つ知らない奴だと」
 強い日差しを浴びて陰影を際立たせた文香の背筋が、うめきとともにしなやかにのけ反った。俺はさらに激しく動いた。
 ジリジリと青い空。遠く聞こえるセミのノイズ。張り詰め、のけ反る背筋。文香のうめきが高くなる。尻を握る手に力が込もる。突き上げる快楽が怒濤のごとく、止められず、俺は完全に痙攣した。
 最高、だ。
 完全に放出し、滑らかに抜き去ると、文香のボウルが転がった。綺麗に舐められた舌の跡が残っていた。
 俺はジリジリとした日差しの中でうつ伏せる文香を腕に抱き上げた。恍惚の表情を浮かべる文香をベッドに下ろし、口もとに残った一粒の飯粒を舐め上げた。
「文香、セミの欲情が夏を狂わせる、そうだろう?」
 文香の隣に横たわり、見ると、あの窓でカラスが俺をじっと見ていた。

続きは木戸隆行公式サイトLOGOSで

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